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S A K I K O
銅 版 画 集

文 : 笹 本 正 明     絵 : 笹 本 正 明

SAKIKO」は笹本正明自身の創作童話に銅版画16点を挿入した銅版画集です 版創りから摺りまで作家自身が行ったオリジナル作品です

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 NO-2 旅 た ち・・




まだ、夜の領域が昼よりも圧倒的に多かったころ
わたしは、自分のこころがいつのまにか失われていることにきがついた。
わたしは失ったものをさがしにいかねばならないと思った。
外の世界は、果てしない不安に覆われていた。
けれどもわたしは、わたしの中にある、より大きな不安にせき立てられるように
長く安住していたわたしの籠を出て、旅たつことにした。
 










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 NO-3 楽  園・・





雷鳴がとどろき、いかづちに焼かれた樹木が立ち並ぶ大地を、わたしはあてもなくさまよった。
星も見えない暗い空が幾日も地上をおおっていた。
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荒れ果てた野と山をいくつか超えた場所にその楽園はあった。
そこは人の五感をまどわす巨大な女神が支配する場所であり,色とりどりの眼も眩むような
人工の光に溢れ,途切れぬ官能と、いつわりの幸福を,おとずれる者たちに
無尽蔵にめぐみ与えていた。
偽りの昼の輝きによって、夜に疲れた人びとが、はかない慰めを得ようとしていた。 
その楽園に足を踏み入れたわたしは、そこに居た彼らと同じように、
たちまち愉悦の毒におかされた。





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 NO-4 黒 い 犬・・




「おまえ、そんなところで、なにをしている」
知らぬ間に黒い犬がしのびよって、突然こう言った。わたしはびっくりして立ち止まった。
驚きのあまり、立ちすくんだまま、その犬を見つめていた。
「何かを求めてここに来たのか、ばかめ、ここにはなにもない。あるように見えるだけだ。
こんなところにいつまでも居るものでない。みろ、おまえの足元を
わたしは足元をみて、ぞっとした。無数の男女が屍体のように横たわっていた。
この人たちに、なぜ、いままで気づかなかったのだろう。
「ここですごしておれば心が満たされるだろうと思っていた愚かものたちだ」 
横たわる人びとは、沼に沈んでいくように少しづつ地面にめりこんでゆく。
わたしは茫然とそれをみていた
--死んでいるのだろうか、とわたしは声を出さずに思った
「死んではいない」 犬が見透かすようにいった。
「だがこいつらは、このままここで朽ち果ててゆくだけだ 
いつまでもここに居ると、ここから出られなくなる。 
こうなりたくなかったら、ここからでてゆけ」
恐怖に駆られたわたしは、後も見ずにその場から走り出した
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 NNO-5  誰かに腕をつかまれて・・









誰かに腕をつかまれ、ふわりと体が浮いた。
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「いっしょにいこう」
--どこまで?
「きみの行きたいところまでさ」











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 NO-6 物 語 獲 り ジ ュ ヘ ル ダ・・
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わたしのうでをつかんだその少年は、ジュヘルダと名乗った
気がつくとわたしは空を翔ぶ不思議な乗り物に乗せられていた。すべるように静かに
その乗り物は暗い空を駆けていた。暗い空を駆けていた。
ジュヘルダはけっして地上に降りるこよなく、この乗り物に乗って常に空で
暮らしているのだと言う。
「誰も気づいていないけれど、空には無数の物語のかけらが 漂っているんだ。
それを拾い集めて ふたたび形ををあたえるのが、ぼくのつとめなのさ」
そう言って、彼は眼の前に漂い流れてきた光る鱗のようなものを器用に指でつかんでみせた
「ほら見てごらん」
その鱗のようなかけらには、よく分からない文字が細かくびっしりと書きこまれている。
彼はその鱗を腰の袋にしまいこむと、こちらを向いて微笑みかけた。
よくみると、あたりの空いちめんにきらめく破片が無数に漂っているのが見える。
「その昔、地上は豊かな物語で満ちあふれていたんだ。でも、いつのまにか
そのほとんどがばらばらに砕けて空に飛び散ってしまった。いま地上にあるのは
安っぽくてくだらない話ばかりだ。みただろう君も、あの偽の楽園を」
彼は話しながらも絶え間なく宙のかけらを拾い集めている。 
「物語が失われると、人はこころをやすらかに保つことができなくなって、世の中には無秩序が 
はびっこてしまうんだ。ぼくが空で暮らしつづけて、こんなことをしているのも
あの人たちみたいに無秩序の泥に沈み込んでしまいたくないからさ」
そう言って彼はこちらに顔を向けた。
「ぼくはいままでずいぶんたくさんの物語のかけらを拾いあつめた。けれど、物語をほんとうに 
完成させるためには、どうしても必要なものがもうひとつある。それは ‘‘聞き手’’ なんだ。 
ねえきみ、ぼくの話を聞いてくれるかい」
彼の瞳を見つめるうち、わたしはわけもなく胸がどきどきしてきた
わたしがこくりと頷くと、ジュヘルダは子供のような笑みを浮かべてみせた。
彼は腰の袋に手を入れ、かけらをひとつかみ取り出すと、口に含みしばらく胸に手をあてて、
呑みこんだものが、からだの中に、おさまってゆくのを待っていた。
彼の物語がはじまると、わたしの体に長い間根付いていた不安が氷が溶けるように静かに
消えてゆき、いつのまにか眠りがやわらかな羽毛のようにわたしをつつみこんでいった。 

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 NO-7 新海の森・・
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その森に近づくと、黒々とした樹と樹のあいまに、古代魚を思わせる巨大な魚が漂っているのが
見えた気がつくと、とんがり帽子を被った背の高い男が傍らを歩いていた。
あの森に行くなら一緒に行こう、とわたしを誘った。
森の入り口で梟が鳴いた。
「幸福でない者、満たされることがない者は、ここから先へ入らぬがよい」
男は口の端に笑いを浮かべると、わたしを森の中へと導いていった。












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 NO-8 モ リ ノ ウ オ ツ カ イ・・
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森の中に入ると、ありとあらゆる魚が泳ぐようにゆらゆらと宙を漂っていた
とんがり帽子の男が杖をひと振りすると、ひときわ大きな魚が近づいてきて、わたしたちの周りを
一巡りし、杖の先にぴたりととまった。
--こんな魚っていたかしら、とわたしは思わず呟いた。地上を泳ぐ魚なんて見たこともない。
むろんこいつらはもともと海に棲んでいたのだ」 男が皮肉に笑いながら言った。
「こいつらはこの森が水の中だと勘違いしているんだ。こんなやつらはこの森にいくらだっている」
トンガリ帽子のウオツカイは杖で地面を掘り返した。驚いたことに、穿った穴から蝶が次々に
舞い出てきた。けれどもその蝶は空中に舞い上がったとたん、煙のような黒い粉になって宙に
飛び散っていった。
「この森は勘違いがそのまま通ってしまうんだ。ほらそこ、よく見てごらん」足元に花がさいている。
だがその花は、わたしたちが近づく端からざわざわと移動してゆく。
よく見ると奇妙な形の昆虫がびっしり地を被っていて、その虫の背中から花が生えているのだ。
わたしは気を失いそうになった。
「あれはハナセオイムシだ。何故あんなやつがいるかって? 
そうなりたいと思ったからだろう。ねえきみ、自分が自分であることに満足できないなんて
まったくばかなやつらだと思わないかね。
変わりたいと思う気持ちがそっくりそのまま通ってしまうと、こんな世界になっちまうんだ
そのうちこいつらは自分がなんだったのかも分からなくなってしまうだろう。
身のほど知らずの勘違いほど憐れなものはない」
ウオツカイはまた皮肉な笑いを浮かべた。
「だが、ここはまったく面白い。ぼくはここがきにいってる。」
彼は頭上で杖をくるくる回した。小さな魚が渦を巻くように杖の周りにまとわりついた。
「きみも変なことを考えなければ、結構楽しめるはずさ。じゃ、きをつけたまえ」
無数の小魚を引き連れながら、ウオツカイは姿をけした。

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 NO-9 ワ イ ル ド ・ ボ ッ ク ス・・
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いつの間にかわたしはこの森の最も奥深く、深遠な闇が支配する場所に足を踏み入れていた。
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闇の只中に棺のように置かれていたその箱は、一切の飾りも色もなく、あらゆるものを根こそぎ
吸い込んでしまいそうな、がらんどうの漆黒に覆われていた。
その箱に近づいてゆくと、待ち構えていたかのように、蓋がゆっくりと音もなく開いた。
 「聞いているか、迷子よ」
深い穴の底から吹く風のような聲がした。わたしは言いようのないおそれを感じた
「この箱にはあらゆる世界から排除された悪意が閉じ込められている。
悪をひとつ残らず取り除き、世界を善意で満たせば永久の楽園が実現するだろうと
思い上がった者たちがこの箱をつくったのだ。だが覚えておくがいい。
悪が完全に排除された世界など、そこはまさに地獄というものだ」
聲が伝えようとするものに、わたしは戦慄した
「生き延びたいのならば良いことを教えてやろう。地獄へ至る時代の入り口には、必ず善人面した
者どもが群がり湧いて、お為ごかしにおまえが持っている悪の要素をひとつ残らず潰そうとするだろう。
だが屠殺される豚のようになりたくなっかたら、ゆめゆめそいつらに耳を貸してはならぬ。
もしおまえのからだの中に、どうしても消し去ることのできない悪意が残ったならば、それは最後まで
残った善意と同じく貴重なものだ。せいぜい大切にしておくがいい。
おまえの存在そのものがおびやかされるような厄事が起きたときそれが必ず 
おまえの身を救ってくれるだろう」 もはや聲の魔力に、わたしは魅入られそうになっていた。
「闇にむかう魂を鍛えよ。夜が持つ力をおまえの力にするのだ」 
 最後にそう告げると唐突に箱の蓋は閉じた。  
後には圧倒的な虚無だけが残り、わたしはいかなることを思い浮かべることも出来ずに
ただ呆然と立ち尽くしていた。 

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 N-10 泉 の ほ と り・・






いちばん深い闇を抜けると小さな泉があり、そこには静謐な光がわずかにふりそそいでいた
泉の水面は曇りひとつない鏡のようになめらかだった
わたしは気持ちを落ち着けるために、水をすくって飲もうとした。
だがその手はすぐにぴたりと止まった。
自分の手が枯れ木のようにやせ細っていた。水面には見なれない老婆の顔が映っている。
驚いて自分の顔を触ってみると、かさかさに乾いた紙のような感触がする。
「それがおまえの望んだ姿だろう」
どこからか、あの梟の声がする。
自分の体が足元から水になり泉に流れてゆくようなかんじがした。
わたしはそこで気を失った








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 NO-11 死をおそれることはない・・

片足のエフィー(1)

暗闇の中でわたしはひとり泣いていた。
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遠いところから、ぬくもりのある声がかすかに聞こえてくる。
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なにをそんなに泣いている? 人間には自分の意思で、ままになるものとならないものとがある。
ままにならないもので思い悩むことはないんだよ。死はだれにだって訪れるだろう。
だから死を恐れる必要はないんだ。
だが(恥ずべき死)は恐れなければならないし、それは、できるなら、
自らの意思で避けなければならないことなんだ。
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わたしはそこで目が覚めた。 頬が涙で濡れている。 そこはもう森の中ではなかった。
起きあがり、自分の顔を触ってみたが、特に変わっている様子は感じられない。
あたりを見渡すと傍らに水たまりがあった。 覗いてみると、そこに老婆の顔はなく
見なれたわたしの顔があった。だが、まったく元どおりのわたしの顔ではないような気がする。
「きみはあの森を抜けてきたんだろう。 だから、少し大人になったんだ」」
その声にふりむくと、見知らぬ男の人が立っていた
「そうやって、少しづつ変わってゆくのが自然だし、一番いい」 
片足のその人は、杖をつきながらわたしに近づいてきた。 
「私の名はエフィー。 さあ立ちなさい、まだ歩く元気があるなら一緒に行こう」 

 
 N-12 カ タ ア シ ノ エ フ ィ ー(2)・・
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わたしたちは広い平野が見渡せる場所に出た。そこでエフィーは立ち止まった
わたしは、思い浮かんだ疑問を口にしてみた。
エフィー、あなたもあの森をとおり抜けてきたのかしら。 だったら、その足を
元どおりにすることが出来たのに。
彼は私の問いにはすぐには答えず前を見ていた。 気高さを漂わせる横顔だった。
「私の体に欠けているところあるからといって、私のこころが欠けているわけではないだろう?」
わたしは聞いてはならないことを聞いてしまったと気がついた。
「この体は、もともと神からお借りしたものさ。 足はひとまず先にお返ししただけだ。
そのうち誰でも体全部をお返ししなければならない時がやってくるだろう。
だが、こころだけは私のものだ。 失った体をいまさら取り戻そうとは思わないが、
長年かけてつくりあげてきたこの自分のこころだけは、誰に渡すつもりはない」
エフィーはそう言ってわたしの方を向いた。彼の言葉は、わたしの体の中にまっすぐ入ってきた。
「いいかね。 夜を人間の力で昼に変えることは出来ないが、夜に明かりを灯すことは出来るんだ。
自分の力の及ばないことを出来ると信じたり望んだりすると、自分以外の者の意志がいつのまにか
自分のこころに入り込んでくる。それはあらゆる不幸の始まりになるんだ。
それに気づけば、不幸になることも、迷うこともない。 そして −」
やわらかく微笑みながら、彼はこう言った 。 「自分のこころを失うこともない」
彼の話に耳をかたむけているうち、不思議なことに、眼の前の暗がりに覆われていた平野に
陽がさしてきた。久しぶりに見るほんとうの光だ。
わたしは体の中にふしぎな力が沸き起こってくるのを感じた。
「きみが行く方向が見えてきたようだ」 
わたしは、その言葉にこたえようとして傍らを見たが、もうそこには誰もいなかった。 
わたしは頷いて、ふたたび歩きだした。 

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 NO-12 ふた つ の 部 屋(1)・・
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ゆるやかな丘を登りきったところにその白い館はあった。
館の前に大きな樹があり、幹の半分が真黒に焼けていた。 その樹の周りには、どうしたわけか
久しく嗅ぐことのなかった懐かしい日なたの匂いが漂っていた。
館に足を踏み入れるとすぐ長い廊下が続いて、その一番奥に古びた重厚な扉があった。
その扉の前に立つと、この向うに何かとても大切なものがあるような気がしてならなかった。
わたしのさがしていたものがここにあるのだろうか。 だが不吉な気配もかすかにただよっている。
ためらいながら扉の取手に手をかけた。
「その扉は、開けてはいけないよ」
背後の声に驚いて振り返った。 帽子を目深に被り、濃い色の服を着た男の人が立っていた。
「その部屋は、決して開けてはならないんだ」 男の人の手が、やわらかくわたしの手をつかんだ。
「よくお聞き、おまえの中にもけっして開けてはならない部屋がある。 そこは、おまえ自身も開けては
ならないし、他人にも開けさせてはならない。 そういうものだ」
男の人の表情は帽子の庇の下で暗く翳っている。
「だが、この部屋のことはよくおぼえておくんだ。 この部屋を見つけたおまえは、もう大人だ。
― さ あ、こっちへおいで」  廊下の右側にもうひとつ扉があった。
男の人にうながされ、扉を開けると、その部屋の思いがけない明るさにわたしは一瞬眼を閉じた
ふたたび眼をあけると、あたたかな日差しがたっぷりふりそそぐ部屋のまんなかに
幼い女の子が座っていた。
まるでその女の子は、そこに座りつづけることが自分のつとめだ、とでも言わんばかりに
まったく落ちつきはらい安心しきっているかのようだった。
不思議なことにわたしはその子を、昔からよく知っている気がした。
「おまえがさがしていたのは、この子だろう」
耳に馴染んだ懐かしい声が、背後からする。
女の子の瞳がまっすぐにこちらを見つめている。 このままのわたしを受け入れて、とでも言いたげに

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  N-14 わたしのこころ・・
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ふ た つ の 部 屋 (2)
そうだ、この子はわたしだ。
そしてみるまにすべてをさとった。
この子は幼いころのわたし、そして、わたしのこころそのものだ。
女の子の顔に、このうえない無垢な微笑がひろがった。 彼女に近づき手を取った
やわらかく小さな手のひらが、たまらなく愛おしい。
こころは眼に見えないものななんかじゃない、こうして手で触れることもできるし、抱きしめることさえ
できるものだったんだ
「その子を大事にするんだよ。 そうすれば、おまえはきっと、幸せになれるはずだ」 
わたしはもう、この男の人がだれなのか、気がついていた。
男の人が包みこむようにわたしの両肩に手を置いた。 おぼえのある懐かしい手の感触。
懐かしい匂い。 胸がもういっぱいになる。  何かを言おうとしても、震えて声がでなかった。
「まだおまえが、この子のように幼かったころ、そして今日のような日
おとうさんは、おまえと、さよならしたのだったね」
あいたかった。 おとうさん、わたし、ほんとうにあいたかった。
あいたかったよ、おとうさんも。 大きくなったね。 私は、おまえが、まだこんな小さなころしか
知らないから、今日こうしてあえて、とても、とてもうれしいんだ」
もう、いかないで。 わたし、ずっと寂しかった。 わたし、わたし、おとうさんとまた暮らしたい。
おとうさんの瞳が、わたしをまっすぐ見つめている。  「おまえは、ここで暮すことはできないんだ」
その一言にはおもいがけずきびしい響きがあった  わたしはもう泣き出しそうだった。
もう、おとうさんとあえないの。
「いつでもあえるさ、おとうさんはいつでもここにいる。あいたくなったら、いつでもここにおいで、咲子」
涙があとからあとからこぼれて、とめることができなかった。

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 NO-15 ようやく顔をあげたとき・・
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わたしは、しばらくおとうさんの胸に顔をうずめて泣いていた。
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ようやく顔をあげたとき、馴染み深い顔が微笑んでいた。
わたしのこころは、もうすっかり、あの頃に戻っていた.
おとうさん、わたし、ここに来るまでにいっぱい迷ったの。迷わないで、また、ここに来られるかしら。
「おまえはあの籠から出たから迷ったんだ。 あそこを出れば誰だって迷う。迷ったぶんだけ
人は,、本当の大人になってゆくんだ」
息が感じられるほど、おとうさんの顔がすぐそばにある。 手のぬくもりとともに、その言葉が
わたしの体にしみこんでくる。
「よくひとりであそこを出る決心がついたね」
やがて涙は止み、少しづつおだやかな気持ちが胸にひろがってきた。
涙をふいて、顔をあげると、おとうさんはもう一度微笑んだ。
「もうおまえは、大切なものをとりもどしたんじゃないか」
あの女の子は、いつのまにか、いなくなっていた。 わたしはこくりと頷いた。
「さあ、外に出てみてごらん。 外の世界が、いままでと違っているはずだ」
窓の外を見ると、あの樹がいつのまにか花を咲かせている。
「何年かまえ雷が落ちて、あの樹は半分燃えたんだ。 しばらく花が咲かず、枯れたかと思っていたが
どうやら今年は咲いてくれたようだ」
そう言って、おとうさんはわたしの肩を そっと押して、外に出るよう促した。 
「あの花が咲くころ、おとうさんとおまえはさよならしたが、おまえが生まれた日にも 
あの花が咲いていた。おまえはこの季節が好きだったのだろう?」

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 NO-16 花 咲 く 季 節 め ぐ り き て・・
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わたしは外に出て、ひだまりにあるその樹を仰ぎ見た。 半分がいたましく焼けているが、
もう半分の幹には溢れるばかりに花が咲いている。
わたしには長い間、この季節がめぐってこなかった。 でも、今日からは違う。
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いつのまにか夜がしりぞき、あたたかな陽がふりそそぐ大地にわたしは立っていた。
この樹は、エフィーに似ている。
わたしはふとそう思った。 この樹は、片足で気高く立っていたあの人の姿を思わせた。
今日から、この樹のようにいきていこう。
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ふりかえると、窓のそばに、帽子を目深に被った男の人と幼い女の子が、並んで立っていた。










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